STORY
ストーリー
朴壽南(パク・スナム)は、在日朝鮮人二世として日本で生まれた映像作家である。1935年に生を受けた彼女は、幼少期に皇民化教育を受け、天皇を神と信じる「皇国少女」として育てられた。しかし、5歳の時、民族衣装をまとった母親が石を投げられ罵声を浴びせられるという屈辱的な経験を目の当たりにし、在日朝鮮人への深い憎悪の視線に触れる。朴はその苦しみに耐えきれず、自らの朝鮮人としてのアイデンティティから逃げ出した。しかし解放後、朝鮮学校で祖国の歴史と文化を学ぶ中で、自分自身の民族的な魂を再び取り戻していった。
戦後の1950年代、日本に定住した約60万人の在日朝鮮人たちは、民族差別によってまともな職に就くことができず、貧困に苦しんでいた。この絶望的な状況から抜け出すため、「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮への帰国事業が進められる中で、小松川事件という悲劇が起きた。1958年8月、東京都小松川高校定時制に通う女子生徒が殺害される事件が発生し、犯人として逮捕されたのは在日朝鮮人二世の李珍宇(イ・チヌ)であった。彼は逮捕後、他の迷宮入りしていた女性殺害事件についても自供した。翌年1959年、第二審で李珍宇に死刑判決が下されると、この判決に異議を唱えた大岡昇平や吉川英治など日本の文化人たちが「李君を助ける会」を結成し助命嘆願運動を展開した。朴壽南もこの運動に参加し、事件を自らの問題として捉えた。しかしながら李珍宇は逮捕からわずか4年後の1962年11月に異例の速さで絞首刑となり、その若い命は22歳で散った。後に刊行された朴壽南と李珍宇の往復書簡集『罪と死と愛と』は、多くの人々の心を揺さぶりベストセラーとなった。
その後、朴壽南は一人で在日朝鮮人一世たちの体験を聞き取るために、日本各地を訪ね歩き取材記事を発表していった。これは国家主義によって排除された李珍宇の存在を問い直し、南北分断の狭間で見捨てられた同胞たちの存在を回復する闘いでもあった。彼女が自ら存在の不条理を問う時、そこには歴史によって翻弄され、存在を抹殺された同胞たちの人生が交錯していた。1964年、朴壽南は在日朝鮮人一世への直接取材を開始し、日韓協定によって賠償問題から無視されていた朝鮮人被爆者たちの声を記録し始めた。差別への恐れから沈黙を続ける彼らの姿に向き合い、高齢化した一世たちが次々と他界していく中で、その沈黙を映像で表現するためペンからカメラへと手段を変え、『もうひとつのヒロシマ−アリランのうた』(1986年)を製作した。
朴壽南はまた、ライフワークとして朝鮮人原爆被爆者の実情と今日の課題に焦点を当て続けている。日本政府は1965年の日韓協定で植民地支配について最終的に解決されたと主張しているが、朝鮮人被爆者への国家賠償責任は依然として問われていない。戦後、医療さえ受けられず放置されてきた韓国に暮らす原爆被害者たち。その1990年代の復元映像と現在を結びつけながら、朴壽南は娘の朴麻衣とともに再び長崎へ向かい、日本市民と韓国徴用工との裁判闘争を取材している。日本政府による歴史への歪曲や関連作品への検閲が続く中でも、朴壽南は30年以上もの間、沈黙の中に埋もれた歴史の被害者たちの声を記録し続けているのである。